2017年2月25日 院生組織読書会
2017年2月25日
院生組織読書会
課題図書:野田研一『失われるの は、ぼくらのほうだ――自然・沈黙・他者』(水声社、 2016年)
院生組織では去る2月25日、立教大学池袋キャンパ スにて、著者・野田研一氏をお招きして『失われるの は、ぼくらのほうだ――自然・沈黙・他者』(水声社、 2016年)について読書会を行った。山田悠介をオーガ ナイザーとし、笠間悠貴、高橋実紗子、三宅由夏、青田麻未の4名がそれぞれの専門領域の観点から話題提 供を行ったうえで、野田氏の応答および全体でのディスカッションを行うという形式で会は進められた。
様々な話題が飛び交う濃密な時間であったが、参加者の主な関心は野田氏の言う「他者」に向かっていたと言えるだろう。野田氏は同書において、根源的な他者とはわれわれの前で沈黙しているものであるとしたうえで、そのような他者としての自然とわれわれとの交感の道を探る。ここで言う沈黙とは、人間の用いる言語とは別の仕方で、可感的なものとしてわれわれに迫ってくることを意味する。そのような他者とはいかなるものなのか、またわれわれはなぜ自然を他者とみ なすべきなのか――このような大きな問いを惹起する力が、同書にはある。
これらの疑問をめぐる野田氏の丁寧な応答のなかでも、とりわけわたしが興味深く思うのは、「擬人化」 である。自然の擬人化はしばしば悪しきものとみなされるが、野田氏の語りからは、一方向に収斂しない擬人化、すなわちわれわれと自然とのあいだの共感関係を担保し、われわれの根源として自然を措定する可能性を拓くものとしての擬人化の姿が見えた。この擬人化は、言語を媒介としない点で、自然と共感しながら しかしなお自然を沈黙する他者であるとみなすことを 可能にする。それゆえ、われわれと交感できる他者というアンビバレンスな存在について考える際の鍵とな るのだ。
最後になるが、院生からの読書会の提案をご快諾く ださり、長時間にわたりわれわれの疑問に真摯に応答してくださった野田先生に、心からのお礼を申し上げたい。
執筆者:青田 麻未 (Asle-J Newsletter No.42 [2017年6月発行] より再掲)
院生組織読書会
課題図書:野田研一『失われるの は、ぼくらのほうだ――自然・沈黙・他者』(水声社、 2016年)
院生組織では去る2月25日、立教大学池袋キャンパ スにて、著者・野田研一氏をお招きして『失われるの は、ぼくらのほうだ――自然・沈黙・他者』(水声社、 2016年)について読書会を行った。山田悠介をオーガ ナイザーとし、笠間悠貴、高橋実紗子、三宅由夏、青田麻未の4名がそれぞれの専門領域の観点から話題提 供を行ったうえで、野田氏の応答および全体でのディスカッションを行うという形式で会は進められた。
様々な話題が飛び交う濃密な時間であったが、参加者の主な関心は野田氏の言う「他者」に向かっていたと言えるだろう。野田氏は同書において、根源的な他者とはわれわれの前で沈黙しているものであるとしたうえで、そのような他者としての自然とわれわれとの交感の道を探る。ここで言う沈黙とは、人間の用いる言語とは別の仕方で、可感的なものとしてわれわれに迫ってくることを意味する。そのような他者とはいかなるものなのか、またわれわれはなぜ自然を他者とみ なすべきなのか――このような大きな問いを惹起する力が、同書にはある。
これらの疑問をめぐる野田氏の丁寧な応答のなかでも、とりわけわたしが興味深く思うのは、「擬人化」 である。自然の擬人化はしばしば悪しきものとみなされるが、野田氏の語りからは、一方向に収斂しない擬人化、すなわちわれわれと自然とのあいだの共感関係を担保し、われわれの根源として自然を措定する可能性を拓くものとしての擬人化の姿が見えた。この擬人化は、言語を媒介としない点で、自然と共感しながら しかしなお自然を沈黙する他者であるとみなすことを 可能にする。それゆえ、われわれと交感できる他者というアンビバレンスな存在について考える際の鍵とな るのだ。
最後になるが、院生からの読書会の提案をご快諾く ださり、長時間にわたりわれわれの疑問に真摯に応答してくださった野田先生に、心からのお礼を申し上げたい。
執筆者:青田 麻未 (Asle-J Newsletter No.42 [2017年6月発行] より再掲)